MGとTCとBT
MGはKOUSAKUが中心に行っていた「まるごみ」としての活動。TCは守屋氏が中心に行っていた「とど千葉」の活動。BTとはその後にKOUSAKU・守屋氏が共に活動するようになり立ち上げた支援TEAM・BATMANの活動です。※KOUSAKUの「こう」と守屋の「もり」、合わせて「こうもり」でBATMAN。
2011年3月15日 MG 千葉県旭市
東日本大震災が発生後、千葉県まるごみメンバーのメーリングリストを通じて千葉県中から物資を集めて旭市の避難所へ。まるごみ船橋の代表である株式会社日本都市の代表取締役社長・大原社長の会社ダンプをお借りして出動。これがまるごみ支援チーム最初の災害支援であった。
2011年3月20日 MG・福島県郡山市ビックパレットへ
地震後、燃える東京・千葉、津波に原爆発。想像を超える被害の大きさに誰もが震えていた。すぐにKOUSAKUは、まるごみ理事でZERO1プロレスのレスラー兼・社長の大谷晋二郎さんに電話で話しました。結果『困っている人がいるなら動きましょう』二人の思いが一致して、原発事故により2400人が避難する福島県郡山市のビックパレットへ物資運搬で向かうことに
3月22日 MG 福島県南相馬市へ
郡山から戻る最中で、南相馬市のSOSを聞きつけました。すぐに必要物資を日本都市の大原社長へ伝えると、船橋の日本都市では物資集めが行われ、見えない放射能という敵のために、物資一つ一つを包装し守ることに。まだ、この時は放射能が何か?全く理解できず、とにかくカバーするしかないと必死で物資を梱包しました。南相馬市の入口では白い防護服を着た警察に止められ町へ入ず。携帯の電波が中々繋がりませんでしたが、何とか先方とコンタクトが取れて、放射能から避難している会津磐梯山のロッジへ物資を届けることに。
3月24日 MG 宮城県石巻市不動町の明友館へ
3月22日の福島から戻る途中、『物資としてラジオを集めたので東北へ持っていくことは可能か?』とKOUSAKUにBAYFMスタッフから連絡が入り、『もちろんです』とKOUSAKU。翌日、局までラジオをピックアップしに行くと、当時夕方の生放送を担当していた山寺宏一さんとバッタリ。その時に、石巻の民間避難所『明友館』の話を聞き向かうことに。
3月26日 MG 山寺さんと明友館へ
3月24日石巻の帰り道、山寺宏一さんから『明日仕事の都合をつけた』とご連絡をいただき、25日に山梨・千葉で物資を集めて山寺さんと再び石巻の明友館へ。『明友館の後に、視察で様々な地域を観に行き来ましたが、自身の地元の変わり果てた姿に涙する山寺さんの背中が忘れられない』とのちにKOUSAKUは語った。
3月26日 TC とどけよう千葉『とど千葉』動き出す
起業してわずか1年ちょっとの株式会社A-TRUCK。会社はまだまだ大変な最中にあったが、守屋慶隆氏は東北の惨状にじっとなどしていられなかった。『東北に行くぞ!』そう発した守屋氏の言葉に様々な企業が反応した。
3月27日 MG 靖国神社奉納プロレスにて復興支援出店
3月28日 TC 宮城県仙台市、石巻市
3月29日 MG 山寺さんと宮城県亘理群亘理町・学習塾ネオスクール山本町・山本町体育文化センターへ
山元町の臨時災害放送局『りんごラジオ』、元東北放送の名アナウンサー・高橋厚局長の番組に山寺さんが出演し、637人が犠牲となった山元町にエールを届けました。
4月01日 MG 宮城県石巻市盟友館へバイク運搬、福島県郡山市ビックパレットへ物資運搬
KOUSAKUの地元・浦安をはじめとした様々な郵便局から中古のカブの協力をいただき、被災地へ届けました。また、ラジオ界の大先輩である小川もこさんが一緒に来てくださいました。
4月05日 MG&TC 岩手県陸前高田小友町・新井田避難所、華蔵寺避難所へ。A-TRUCK守屋氏とKOUSAKUの出会い
船橋倫理法人会の畑山氏から『弟が岩手県陸前高田市の広田半島に閉じ込められている』との情報を受け。この出動時に初めて株式会社A-TRUCKの守屋氏を中心に活動しているとど千葉(とどけよう千葉)とまるごみ支援チームの共同支援活動を実施。
4月09日 MG 宮城県亘理群亘理町・学習塾ネオスクール、山本町・山本町体育文化センター
亘理町と山本町へ物資とバイクの運搬。また、ペットの避難状況調査を行った。